話数単位で選ぶTVアニメ10選 【2017年上半期編】

2017年も半分が過ぎちゃったし、何かしら振り返るかと思っていたところ、表題のようになりました。(試験勉強ェ…)

まぁ一度やってみたいなと思ってたし、こういう回もあっていいかな。

 

個人的にメモしていたものから、

・2017年1~6月に放送されたTVアニメ(再放送除く)

・1作品につき上限1話

・順不同

 で選択した。

 

キラキラ☆プリキュアアラモード  #02「小さな天才 キュアカスタード!」

脚本:田中仁 演出:宮元宏彰 総作画監督:川村敦子 作画監督:石川てつや

http://lineup.toei-anim.co.jp/upload/save_image/episode/4702/story_img_2.png

 この半年で5回以上は見返した回。キラキラした漫画的表現・コミカルな動きを強調したかと思うと、突然、夕日差し込む部屋にシリアスな雰囲気を作り出す。異常なまでに好きなものへ固執するひまりのキャラクターと相まって、目の離せない30分となっていた。プリンについて熱く語りすぎ、周囲の友達が引いていくひまりのカットは川本まりこの原画*1

参考↓

kViN on Twitter: "https://t.co/9zt7H9so12"

 

 

リトルウィッチアカデミア #06「ポラリスの泉」

脚本:島田満 絵コンテ:上荻雪羽 絵コンテ協力:田村瑛美 演出:宮島善博
作画監督:田村瑛美 作画監督補佐:斉藤健吾、杉本ミッシェル

http://tv.littlewitchacademia.jp/core_sys/images/contents/00000065/block/00000183/00000103.jpg?1498791786 

LWAは外せない…ほんと10選をすべてLWAにしてもいいと思ったくらい。

6話は変身魔法が初出。TRIGGER演出部の宮島善博が演出を担当しており、田村瑛美や杉本ミッシェルといったリトルウィッチアカデミアで鍵となっている若いアニメーターが集まっている。宮島善博は12・20・25話も担当(すごい)。それにしても変身魔法いいよな…

  

 

フレームアームズ・ガール #04「迅雷参上!/お部屋づくりは楽しいな」

脚本:南々井梢 絵コンテ・演出・作画監督:川畑えるきん 原画:川畑えるきん

http://www.fagirl.com/images/story/04/photo_002.png

 川畑えるきんのひとり原画回。こういうアニメが増えればいいな…FAGirlは、帰ったら見たいTVアニメという感じで好きだった。(なおパンツ)

 

 

僕のヒーローアカデミア #25「轟VS爆豪」

脚本:黒田洋介 絵コンテ:大塚健 アクション監修:甲斐泰之 演出:高藤聡
総作画監督馬越嘉彦 作画監督:三谷高史、出雲誉明、長谷川早紀

http://heroaca.com/images/episodes/25/127.jpg

 この画像のカットは、ハイキューのサーブを思い出す人も多いのでは。話としても熱い。甲斐泰之が絵コンテ・演出のOPいいよな…

 

 

機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ #45「これが最後なら」

脚本:黒田洋介 絵コンテ:寺岡巌、亀井治 演出:綿田慎也
作画監督 キャラクター:戸井田珠里 森下博光 神谷美也子 山崎克之
メカニック:有澤寛 久壽米木信弥

http://g-tekketsu.com/2nd/story/45/04.jpg

 いろいろ賛否両論あるのはわかるが、好きだった。バルバトスの獣感がオルフェンズで好きなポイントだったが、結局はストーリーから45話を選択することに決めた。ひたすらバッドエンドへ向かって激走している様子を観ることになった2期だったが、45話が決定的だっただろう。まとめていて、この回の脚本が黒田洋介だということに気付く(この10選で二度目)。

 

 

冴えない彼女の育てかた♭ #08「フラグを折らなかった彼女」

脚本:丸戸史明 絵コンテ:亀井幹太 演出:柴田彰久

総作画監督高瀬智章 福地友樹 作画監督石田一

http://www.saenai.tv/images/story/08/02.jpg

メインヒロイン以外のヒロインがが登場しない、メインヒロイン回。アニメにおいてキャラクター二人だけでの会話は鬼門だと思っているのだが、亀井幹太の絵コンテが冴える、この室内での会話劇はほんと好きだった。あと、石浜真史のOPが好きです。

 

 

アトム ザ・ビギニング #1「鉄腕起動」

脚本:藤咲淳一 絵コンテ:佐藤竜雄 演出:朝倉カイト

作画監督:伊藤秀樹 メカニック作画監督:中原久文、吉田大洋

https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/G/09/2017/dvd/GUE/article/atom/ATB01_003._SL600_.jpg

 現在放送中。ロボットレスリング等のアクションもいいのだが、日常のちょっとした仕草が好きなアニメだ。モーパイの時も同じ様なことを言ってた。OPもいい。

 

 

この素晴らしい世界に祝福を!2 #01「この不当な裁判に救援を!」

脚本:上江洲誠 絵コンテ:金崎貴臣 演出:いわもとやすお
総作画監督菊田幸一 作画監督石川洋一、鵜池一馬

http://konosuba.com/story/img/01/4.jpg 

一期に比べ、さらに作画の遊びが強まった二期で、印象深かった回。

 

 

以下から二つ選べば10選になりそう(また今度、時間があったら追記)

 

Re:CREATORS #02「ダイナマイトとナイスガイ」

脚本:広江礼威木澤行人(ライトワークス)、あおきえい 絵コンテ・演出:加藤誠 作画監督:中井準

 

小林さんちのメイドラゴン #6「お宅訪問!(してないお宅もあります)」

脚本:山田由香 絵コンテ・演出:三好一郎 作画監督:丸子達就

 

まけるな!!あくのぐんだん! #3「コンビニ」

あくの演出・絵コンテ:京極尚彦 あくの作画監督:宮崎輝

 

兄に付ける薬はない!-快把我哥帯走- #2「危機的放課後」

監督・脚本:ラレコ アニメーション:泉川直樹

 

 

日記8.行政法総論における法治国原理?(6/30)

先日のブログをうけて薦めてもらった牧野雅彦『国家学の再建 イェリネクとウェーバー』1,2章「ドイツ統一と国家額の再編」「ドイツ国家額における君主政の問題」(~p93)

シュミットーアスマン『行政法理論の基礎と課題』2章「法治国と民主政を選択する憲法決定」(pp41~112)

 

メモ程度で残しておくと、

シュミットアスマンはかなり興味深い。原題はDas allgemeine Verwaltungsrecht als Ordnungsidee(秩序付け理念としての行政法総論)であり、行政法をシステムとして捉える姿勢をとる(メモ:ルーマンが批判的にだが引かれていた1/34)。山本の説明における「開放された意義」というのは、この「不断に反省し新たに構築される」システムとしての行政法のイメージから来ているのだろうか。

 

ラーバントの『予算法』における「憲法の欠缺」の問題から、イェリネク『一般国家学』の法実証主義批判へと議論を伸ばす記述は読みやすい。イェリネクは、法の二重性(「人々の行動を通じて具体的な社会・文化現象を形成する法」と「行動の規範としての法」)に対応する形での、ふたつの方法(社会的認識方法と法律学的方法)を、区別したうえで補完関係にあると捉えた。。一定の法概念・法命題から体系的な演繹・推論によって法規と判例を導出するという意味での法実証主義的方法は、あくまで現実の追認しかできないという点から批判される。

 

 あと、加えて

以前のブログをうけ、もう少し丁寧に議論すべきだとの指摘があったのがシュタールの議論だった。論点を、引用されていた以下の文章に絞って書き直してみようと思う。(『法哲学』第2-2巻)

国家は法治国たるべし。……法治国は、国家の活動の方向と限界、および公民の自由の圏域を、法によって正確に定め、破られないように保証する。そして、国家の倫理的理念を、そのまま、法の圏域に属するところを超えて、実現すること(強制すること)をしない。[しかし]国家は行政目的なしに法秩序を使うだけの存在であるとか、国家は個々人の権利を守るだけの存在であるとか、いうのではない。法治国の概念はおよそ、国家の目的や内容を意味するのではなく、そういった目的や内容を実現する態様や性格を意味するだけである。

 

前回はこれをうけて、「形式的に法によって拘束される国家という形式的法治国家概念」という言葉遣いをしていたが、これは確かに誤解を生みうるところで、Diceyとの比較によって強調されるのは、「法によって拘束される国家」という部分ではなく、「形式的に」の部分である。つまり重要なのは後段で、目的ではなく、過程・手続きが法に依って拘束されるということが示唆される。いってしまえば、内実まで拘束されるのではないという意味において「形式的」なのである。

 

上記の牧野では、ヘーゲルの『法哲学』における君主制の扱いを再批判しながら君主制原理を打ち立てた人物としてシュタールが挙げられていた。(牧野p56-61)そこでのシュタールの中心的課題は、「現実的な支配権」をもつ「君主」である*1

 

ただ、シュタールにとって君主制もあくまで一つの「法治国家」であり、完全に恣意的な人格的存在としての君主ではなく、あくまでアンシュタルトAnstalt*2の本質に由来する(人格的存在としての)君主を想定しているというのが重要となる。その権力は、「アンシュタルトの目的によって限定されて、アンシュタルトの法律の定めるところにしたがって行使される」。君主の権力は、その目的においてAnstaltの目的に、その行使においてAnstaltの法律の定めるところに、拘束されるといえるだろうか*3

 

 

話を山本の説明に戻すと、ドイツの法治主義は形式的だとの批判があるがあたらないという風につながっていく。結局は、戦後ドイツにおいて基本権は強く重視されるものとなった。だからこそ、「距離と差異」が問題となる。これは、公と私の差異であり、その距離である。

シュミットアスマンの語る法治国原理では、「執行権の法拘束」と「基本権の効果」の二面から説明される。それは、形式的な側面だけに法的議論を終始させることも、一方で形式的な側面を削ぎ落すことも否定する*4

 

 

*1:「しかしながらまた法律としかるべき機関の協賛という制約の内においてではあれ、君主は現実的な支配権をもたなければならない」。

*2:信徒の共同体Gemeindeに対する教会Anstaltという図式が、社会Gesellschaftと国家Staatの二項とパラレルに語られる。

*3:上の議論をふまえると、興味深いのは前項、つまりAnstaltの目的に拘束される君主という見立てだろう。Anstaltの目的とは、「正義、実直な公的生活や家族の結合の純粋さ」といった「人倫的理念」である。

*4:さらに、基本権は「侵害行政を行うための授権の限界を指し示し、裁量行使を嚮導し、認可の為の構成要件を再編…行政の行動義務を作り出し、議会法律相互の規範衝突を解決」し、基本権に基礎づけられた「比例性、平等取り扱い、法的安定性」といった要請をもって法は、「合理的なもの」「注意を払うもの」「方向づけを与えるもの」であるという、法に対する根本的な要請に応える。

日記7.塩野講義案(6/28)

塩野『行政法第一部講義案(上)』を読んだ。

 

やっぱり行政法総論は、いつになっても理解が進まない…

いくつか気になった点はあるのだが、山本の講義と比較して気になった点のまずひとつは法治国原理Rechtsstaatsprinzipである。

 

なにしろ山本の講義では法治国原理の話が長かった。

章立てで見ると

山本「行政法の基本原理」

行政法総論の方法と体系

法治国原理

民主制原理

権力分立原理

法律による行政の原理

 一方で

塩野「日本行政法の基本原理」

序説

法律による行政の原理

行政のコントロール・システムの充実

法の一般原理

 

「法律による行政の原理」では、2人とも主にOtto Mayerの議論を下敷きにしているという点で共通しているため、大枠での違いは小さい。(もちろん、根拠規範の議論における基本法の話、本質性理論の強調など違いはある)

 

違いが大きいのは、信義則や比例原則、平等原則の扱いである。塩野はこれらを単に「法の一般原理」として(それぞれ、民法警察法(独)、憲法から発達した法の一般原理として)扱う。一方、山本はすべて「法治国原理」のなかで説明する。

 

Diceyの語る「法の支配rule of law」を対置する形で、Stahlの「法治国原理Rechtsstaatsprinzip」を引き合いに出し、この対比で強調される、形式的に法によって拘束される国家という形式的法治国家概念を(ここまでは塩野行政法でも触れられている)、Schmidt-Aßmannを援用しながら否定する。恐らく俺は、このSchmidt-Aßmannの議論が読めていない。「距離と差異の概念でパラフレーズする」とはどういうことなのか。

 

どうも山本先生や太田先生が留学中の指導教官がSchmidt-Aßmannだったようで、よく耳にはする…彼らが訳した邦訳もでているので、近いうちに読みたいと思う。

日記6.社会保障協定と二国間租税条約(6/26)

反応すべき箇所で反応できなかったことが、この時間になって悔しくなってきたのでまとめておく。

 

状況としては、ライン川水夫Rheinschifferの社会保障といった、統一法das kollisionsrechtliche Einheitsrechtが問題となる場合に起こり得る課題Herausforderungとして、その適用の調整があるeine koordinierte Anwendungという議論が話題に上った時だった。つまり、統一法の適用にあたって各国行政庁の解釈がずれた場合に、どのように調整するかという問題が、理論上は生じうるという議論である。(glaser,2007 p92)

 

ここで、

...keine echten Interessengegensätze zwischen den jeweiligen Solidargemeinschaften bestehen, da der Versicherungspflicht regelmäßig Leistungsansprüche gegenüberstehen.

(通常は給付請求権が保険加入義務と対置されるために、それぞれの国の保険者の間に本当の意味での利害対立は存在しえない)

とつながるのだが、この内容をうまく説明できなかった。

 

租税と比較すればわかりやすく、社会保険の場合は保険料の徴収に対し、明確な反対給付が付随するのだから、いってしまえばゼロサムであり、どちらが徴税するかといった場合に国家間で争うことになる利益が、社会保険の場合には生じない。ゆえに真の利害対立echte Interessengegensätzeは存在しないといえる。

 

話に上ったのは、租税条約に比べると社会保障協定では仲裁に関する規定がほとんどないということである。これは、社会保障協定と二国間租税条約との類似性がなにかと強調される(vgl.原田大樹、2015、p190)なかで、面白い指摘かもしれない。

 

関連して読みかえしたのは、旭川市国民健康保険料事件である。法律の留保Ⅰー5-(2)で取り上げられた判例で、本質性理論(重要事項留保説)の一例として扱われていた。強制の度合い等の点において租税に類似する性格を有することから、憲法84条の租税法律主義が国民健康保険についても及ぶとしながらも、目的が限定されていることから、賦課要件に明確性は、強制の度合いだけでなく、目的・特質も考慮して判断しなければならないと論じられていた。重要な点の一つは、租税が単純な反対給付ではないという点で(国民健康保険の目的は国民健康保険事業に要する費用に限定されている)、上記の租税と社会保険の違いがここでも強調されている。

日記5.ギデンズ/山本草二(6/24)

今朝は、一カ月ぶりに社会学専修の先輩達に会い、ギデンズ『親密性の変容』について話をした。

また日記1で触れていた山本草二『国際行政法の存立基盤』の第一部から「国際行政法の存立基盤」を読んだ。 

 

 

『親密性の変容』については、やはり一般書としての性格が強いのではないかという話が説得的だったと思う。ギデンズのモダニティ論などに興味があれば、"The Consequences of Modernity"(1990)や"Modernity and Self-Identity. Self and Society in the Late Modern Age"(1992)などの文脈から読むべきであろう。蛇足だが、romantic loveが単にバックラッシュとして現れるだけでなく、confluent loveに変形され取り込まれることで存続するという、(あの懐かしの)ALESAで自分が書いたものへの反論を、論文中に(勝手に)見出せたのは興味深かった*1また、日本での引用のされ方としては、身体論の文脈で引用されることが多いと聞いた(cf.谷本奈穂『美容整形と化粧の社会学―プラスティックな身体』)。正直、一読した限りでは印象に残らない部分なのだが、確かに現代を特徴づけるものとして摂食障害などがあるという記述もあった(「身体の再帰性」p53)。

 

 今日は文房具カフェでLWAのイベントがあった。明日はついに最終回ということもあり、そのうちブログで書きたいものだとも思う(どうしよう)。

 

疲れたので山本草二については明日書くこととする。何しろ試験勉強の片手間に読むには、骨のある文章だった…

*1:ALESAで「ジェンダーセクシャリティと映画」というテーマを与えられた私はS&TC(映画)を題材として書いた。

日記4.社会保障と憲法25条(6/23)

昨日の夜は疲れてあっさりと寝てしまったので、昨日読んだものについて簡単なメモを残しておこうと思う。

 

昨日は、岩村正彦「社会保障改革と憲法25条 社会保障制度における『国家』の役割をめぐって」(『法の再構築Ⅰ』東大出版、2007)を読んだ。

 

問題関心は、1990年代以降の社会保障制度改革に面し、とくに行財政改革規制緩和、民営化といった文脈からなされる改革に限界はあるのかという疑問にあった。中間団体(つまり保険主体あるいは倉田*1の指す「社会」であり、例えば全国健康保険協会日本年金機構)の役割が大きく多元的な法関係をなす社会保障の領域において、国家の果たすべき役割を憲法25条が課しているのか論じたいというものなのだろう。それが憲法学や社会保障法学で論じられてこなかったことを確認しながら、例えば全国健康保険協会の民営化(可能な業務について株式会社化するなど)や健康保険事業の実施に対する国庫負担の廃止などが立案された場合、それが憲法25条に違反するかどうか検討される。(結論としては、反しない)25条の解釈において、特定の事業主体像が前提とされているかといった議論はすこし面白い。

 

ただ、(結語でも触れられているが)あくまで思考実験にとどまり、実際の訴訟形態を度外視しているのは、どうも片手落ち感が(もちろん検討そのものの価値はあるが)否めない。加えて、憲法学における25条の議論が、裁判規範としての性格(プログラム規定か、抽象的権利か、具体的権利か)に限定されてきたという評価を見て思い出し、戸松憲法を開きなおしてみたところ、25条に関して社会保障における司法的統制の余地が論じられていて面白かった。堀木訴訟より、最高裁では広い立法裁量が認められているその要因の一つとして、生存権訴訟は政府と対決型の訴訟の性格を帯びることが多い(cf.堀木訴訟の弁護団)ことが挙げられていた。(それもあり、個別の事情に焦点を当てやすい14条の性差別問題にすることもある?堀木訴訟一審)そのうち時間があれば、このあたりにおける比較法的議論がみてみたい。意外と忘れているもので、かなりわかってない部分の多い話なので、冗長になった気もする。またそのうち読み返すかもしれない。

*1:倉田聡2003「社会連帯の在処とその規範的意義――社会保障法における『個人』と『国家』そして『社会』」~~

日記3.徳と倫理?(6/21)

S.D.ワルシュ「目的論、アリストテレス的徳、正しさ」(『徳倫理学基本論文集』勁草書房)を読んだ。他人と読む機会がなければ、読むこともなかったと思う論文集だが、上に挙げた論文を最後に一冊読んだことになる。

 

本書から、とりあえずは端的に、徳倫理学は、立法を指向して義務から出発する道徳理論を批判し、人の性質に基礎を置く「有徳な人」の記述から「正しい行為」の理論を打ち立てようとするものなのだと理解した。それぞれ、前者はカントの義務論や功利主義が、後者はアリストテレスが、主な参照点として引かれる。

 

印象としては、批判と構築というよりも、倫理学の領域の確保sicherstellenと記述したほうが近い気がする。大雑把に言えば、ロールズが主題としたような正義*1とは異なるところに、倫理学の領域を確保し、明確に境界を画そうとする試みなのだろうと勝手に理解した。

 

細かい話だが、「アリストテレス的」や「カント的」という語の多さに辟易した。さらに、「アリストテレス的理論」と「アリストテレスの理論」が混在しており首をひねっていたら、どうもそれぞれAristotelianとAristotle'sに対応させての処置のようで驚いた。思うに、上のような関心が先にあり、そこにアリストテレスを引き込んだ結果、先の論者が引いた意味での「アリストテレス」が問題になるようで、留保としてこのような語用がなされたのではないだろうか。まさにS.D.ワルシュの論文は、そこにアリストテレスAristotle's理論を持ち込むことで議論を進めようとするものであった。(ぱっとしない反論への再反論はぱっとしない?)

 

まぁずいぶん前に読んだ、ジュアリ・アナス「古代の倫理学と現代の道徳」(納富訳)は面白かった。

*1:メモ:主題となるのは<社会の基礎構造>「主要な社会制度が基本的な権利と義務を配分し、社会的共同が生み出した相対的利益の分配を決定する方式」『正義論改訂版』p11あるいはその構造を主題とする正義をめぐる係争を前提とする理論