日記4.社会保障と憲法25条(6/23)

昨日の夜は疲れてあっさりと寝てしまったので、昨日読んだものについて簡単なメモを残しておこうと思う。

 

昨日は、岩村正彦「社会保障改革と憲法25条 社会保障制度における『国家』の役割をめぐって」(『法の再構築Ⅰ』東大出版、2007)を読んだ。

 

問題関心は、1990年代以降の社会保障制度改革に面し、とくに行財政改革規制緩和、民営化といった文脈からなされる改革に限界はあるのかという疑問にあった。中間団体(つまり保険主体あるいは倉田*1の指す「社会」であり、例えば全国健康保険協会日本年金機構)の役割が大きく多元的な法関係をなす社会保障の領域において、国家の果たすべき役割を憲法25条が課しているのか論じたいというものなのだろう。それが憲法学や社会保障法学で論じられてこなかったことを確認しながら、例えば全国健康保険協会の民営化(可能な業務について株式会社化するなど)や健康保険事業の実施に対する国庫負担の廃止などが立案された場合、それが憲法25条に違反するかどうか検討される。(結論としては、反しない)25条の解釈において、特定の事業主体像が前提とされているかといった議論はすこし面白い。

 

ただ、(結語でも触れられているが)あくまで思考実験にとどまり、実際の訴訟形態を度外視しているのは、どうも片手落ち感が(もちろん検討そのものの価値はあるが)否めない。加えて、憲法学における25条の議論が、裁判規範としての性格(プログラム規定か、抽象的権利か、具体的権利か)に限定されてきたという評価を見て思い出し、戸松憲法を開きなおしてみたところ、25条に関して社会保障における司法的統制の余地が論じられていて面白かった。堀木訴訟より、最高裁では広い立法裁量が認められているその要因の一つとして、生存権訴訟は政府と対決型の訴訟の性格を帯びることが多い(cf.堀木訴訟の弁護団)ことが挙げられていた。(それもあり、個別の事情に焦点を当てやすい14条の性差別問題にすることもある?堀木訴訟一審)そのうち時間があれば、このあたりにおける比較法的議論がみてみたい。意外と忘れているもので、かなりわかってない部分の多い話なので、冗長になった気もする。またそのうち読み返すかもしれない。

*1:倉田聡2003「社会連帯の在処とその規範的意義――社会保障法における『個人』と『国家』そして『社会』」~~