日記8.行政法総論における法治国原理?(6/30)

先日のブログをうけて薦めてもらった牧野雅彦『国家学の再建 イェリネクとウェーバー』1,2章「ドイツ統一と国家額の再編」「ドイツ国家額における君主政の問題」(~p93)

シュミットーアスマン『行政法理論の基礎と課題』2章「法治国と民主政を選択する憲法決定」(pp41~112)

 

メモ程度で残しておくと、

シュミットアスマンはかなり興味深い。原題はDas allgemeine Verwaltungsrecht als Ordnungsidee(秩序付け理念としての行政法総論)であり、行政法をシステムとして捉える姿勢をとる(メモ:ルーマンが批判的にだが引かれていた1/34)。山本の説明における「開放された意義」というのは、この「不断に反省し新たに構築される」システムとしての行政法のイメージから来ているのだろうか。

 

ラーバントの『予算法』における「憲法の欠缺」の問題から、イェリネク『一般国家学』の法実証主義批判へと議論を伸ばす記述は読みやすい。イェリネクは、法の二重性(「人々の行動を通じて具体的な社会・文化現象を形成する法」と「行動の規範としての法」)に対応する形での、ふたつの方法(社会的認識方法と法律学的方法)を、区別したうえで補完関係にあると捉えた。。一定の法概念・法命題から体系的な演繹・推論によって法規と判例を導出するという意味での法実証主義的方法は、あくまで現実の追認しかできないという点から批判される。

 

 あと、加えて

以前のブログをうけ、もう少し丁寧に議論すべきだとの指摘があったのがシュタールの議論だった。論点を、引用されていた以下の文章に絞って書き直してみようと思う。(『法哲学』第2-2巻)

国家は法治国たるべし。……法治国は、国家の活動の方向と限界、および公民の自由の圏域を、法によって正確に定め、破られないように保証する。そして、国家の倫理的理念を、そのまま、法の圏域に属するところを超えて、実現すること(強制すること)をしない。[しかし]国家は行政目的なしに法秩序を使うだけの存在であるとか、国家は個々人の権利を守るだけの存在であるとか、いうのではない。法治国の概念はおよそ、国家の目的や内容を意味するのではなく、そういった目的や内容を実現する態様や性格を意味するだけである。

 

前回はこれをうけて、「形式的に法によって拘束される国家という形式的法治国家概念」という言葉遣いをしていたが、これは確かに誤解を生みうるところで、Diceyとの比較によって強調されるのは、「法によって拘束される国家」という部分ではなく、「形式的に」の部分である。つまり重要なのは後段で、目的ではなく、過程・手続きが法に依って拘束されるということが示唆される。いってしまえば、内実まで拘束されるのではないという意味において「形式的」なのである。

 

上記の牧野では、ヘーゲルの『法哲学』における君主制の扱いを再批判しながら君主制原理を打ち立てた人物としてシュタールが挙げられていた。(牧野p56-61)そこでのシュタールの中心的課題は、「現実的な支配権」をもつ「君主」である*1

 

ただ、シュタールにとって君主制もあくまで一つの「法治国家」であり、完全に恣意的な人格的存在としての君主ではなく、あくまでアンシュタルトAnstalt*2の本質に由来する(人格的存在としての)君主を想定しているというのが重要となる。その権力は、「アンシュタルトの目的によって限定されて、アンシュタルトの法律の定めるところにしたがって行使される」。君主の権力は、その目的においてAnstaltの目的に、その行使においてAnstaltの法律の定めるところに、拘束されるといえるだろうか*3

 

 

話を山本の説明に戻すと、ドイツの法治主義は形式的だとの批判があるがあたらないという風につながっていく。結局は、戦後ドイツにおいて基本権は強く重視されるものとなった。だからこそ、「距離と差異」が問題となる。これは、公と私の差異であり、その距離である。

シュミットアスマンの語る法治国原理では、「執行権の法拘束」と「基本権の効果」の二面から説明される。それは、形式的な側面だけに法的議論を終始させることも、一方で形式的な側面を削ぎ落すことも否定する*4

 

 

*1:「しかしながらまた法律としかるべき機関の協賛という制約の内においてではあれ、君主は現実的な支配権をもたなければならない」。

*2:信徒の共同体Gemeindeに対する教会Anstaltという図式が、社会Gesellschaftと国家Staatの二項とパラレルに語られる。

*3:上の議論をふまえると、興味深いのは前項、つまりAnstaltの目的に拘束される君主という見立てだろう。Anstaltの目的とは、「正義、実直な公的生活や家族の結合の純粋さ」といった「人倫的理念」である。

*4:さらに、基本権は「侵害行政を行うための授権の限界を指し示し、裁量行使を嚮導し、認可の為の構成要件を再編…行政の行動義務を作り出し、議会法律相互の規範衝突を解決」し、基本権に基礎づけられた「比例性、平等取り扱い、法的安定性」といった要請をもって法は、「合理的なもの」「注意を払うもの」「方向づけを与えるもの」であるという、法に対する根本的な要請に応える。